日本の敵速報

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【中央日報】三・一運動した科学少年が海外留学…南北科学界の土台なった

今年100周年を迎えた三・一運動独立運動)は朝鮮科学技術の種も撒いていた 。当時の独立万歳運動には、未来の南北学技術界代表になる少年科学者も参加していた。1902年生まれの化学者、李泰圭(イ・テギュ)は彼の回顧録三・一運動に参加した途中で逮捕を避けて帰郷したという事実を記録で残した。その後、大韓民国で李泰圭は化学界の父として仰がれ、ソウル国立顕忠院に安置された。1903年生まれの物理学者、都相録(ト・サンロク)は独立宣言書の印刷容疑で検挙されて咸興(ハムフン)地方法院で懲役8カ月を求刑され、京城覆審裁判所でテ90の実刑を宣告された者と同一人物であると推定される。その後、都相録は北朝鮮科学院の院長を務め、人民科学者に推戴され、平壌ピョンヤン)の新美里(シンミリ)愛国烈士陵に埋葬された。

三・一運動は当時の10代の少年に自強意識を植え付けた。全北(チョンブク)大学キム・グンベ教授の研究によると、1920年代に科学技術を学ぶために日本や米国などに留学に行く者が増えた。国内では京城工業専門学校朝鮮人学徒と卒業生を中心に1922年発明学会が結成されて大衆的科学運動を展開した。

実力の養成には時間がかかるが、その見返りは大きい。1931年李泰圭が京都帝国大学で化学分野理学博士学位を授けられると、メディアはこれを大きく報じた。日本人の威勢に萎縮していた朝鮮人に李泰圭が民族の自負心を呼び起こしたためだ。1935年、日本理化学研究所のキム・ヤンハ(1901年生まれ)がビタミンEに関する研究成果を発表したが、その後、朝鮮のメディアはキム・ヤンハをノーベル賞受賞候補として褒め称えた。

だが、植民地朝鮮の科学技術現実は不毛だった。日本や米国留学を通じて科学技術の高等教育を履修した者が植民地の朝鮮に帰ってきてできることは教師程度に制限された。苦しい現実は物理学者の都相録がメディアに寄稿した一文章に表れている。「昨今の日記は甚だ沈鬱にして、今日は昼寝が深く入り物理研究所が夢に出てきました」。

朝鮮人科学者は皆、朝鮮での研究所設立を望んでいたが、結果は国家のない科学の佗びしさだった。先に朝鮮人が科学技術に未来の希望を抱いたとすれば、科学技術者は国家主義を抱くことになった。すぐに成果が出なくても朝鮮人科学技術者を後援する民族資本家がいた。三養社(サムヤンサ)が運営した奨学財団「養英(ヤンヨン)会」の1940年理事録には、キム・ヤンハ、チェ・サムヨル、カン・ジョンテク、リ・スンギ、パク・チョルジェが養英会から各月50ウォンの研究費を3年間支給されると書かれている。5人中カン・ジョンテクを除く4人全員が科学技術者だ。李泰圭博士の回顧録にも養英会から学費と生活費の支援を受けたと記録されている。

韓国の科学技術は三・一運動以降、自強を夢見た少年によって成長した。アン・ドンヒョクの集計によると、解放直前の専門学校卒業以上の科学技術人材力は農業・土木工業・機械工業・物理学など19分野で1万330人が従事していることが明らかになった。解放直後、独立国家建設の旗じるしが高く掲げられた時、科学技術者は学界および団体で主導的な役割を担当した。

三・一運動100周年はいま、大韓民国科学技術に一つの大きな課題を投げかけている。20世紀に形成された自強意識と国家からの疎外という植民地的属性は、大韓民国科学技術の精神的底辺に「強力な国家主義」を刻印させた。韓国科学技術者にはたびたび志士的イメージが負わせられる。愛国的科学者、国家的技術者、意気ある企業家のようなものだ。

だが、2019年の現実は全く違う。メディアでは科学技術に対する誇りを見つけるのが難しく、科学技術者は強力な国家主義を束縛と感じる。2019年の韓国人にとって科学技術は何で、韓国科学技術者にとって国家とは何か。省察と未来が三・一運動100周年を記念する韓国政界と科学技術界の話題になればという願いだ。