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【中央日報】韓国仁川に戦犯企業「三菱」の駅ができそうになった理由

広域鉄道は私たちの暮らしと切り離して論じるのは難しいインフラだ。ところが駅が多いため、駅名にちなんで呆れるような事例もある。4号線「新吉温泉(シンギルオンチョン)駅」が代表的だ。当然近くに温泉があるかと思いきや、全くそうではない。温泉を求めて訪ねてきた人々のために、一時「駅周辺には温泉はありません」という案内まであったほどだ。このように呆れる状況に至った背景にはそれなりの事情があるのだろうが、それよりも大きな問題は誤りをそのままにしているという点だ。

駅名を変更するには行政手続きがあり費用もかかるが、それでも放置したままにすれば上記の事例のように今後も問題を引き起こす可能性がある。したがって最初に駅名をつけるときはさまざまなことを考慮に入れて慎重でなければならない。そのような点で2001年に開通した仁川(インチョン)地下鉄1号線の「東樹(トンス)駅」は非常に意義が大きい駅名といえる。行政区域として仁川市富平2洞(プピョンイドン)にあたるここは永らく「サムヌン」と呼ばれていたため、当初の予定ではサムヌン駅になるはずだった。

ところでこの「サムヌン」は植民地残滓がそのまま表れている名前だ。1930年代末、日帝日中戦争の背後基地とするために富平一帯に造兵廠と呼ばれる大規模な軍需基地を作った。日本本土以外につくられた唯一の軍需工場だったほど重要な施設だった。歳月が流れて多くの場所が宅地や公園などに変わったが、今も国軍や在韓米軍が一部の施設を使っているほど規模が大きかった。

造兵廠からも富平駅に直結しているほど最も立地の良い位置に製鋼工場を運営していた企業が、最近、強制動員被害者に対する賠償判決を受けたが、これこそまさに履行を拒否している戦犯企業の三菱、すなわち「三菱=サムヌン」だった。当時、多くの韓国人が仕事を求めて富平に押し寄せたが、富平の中心を日本人が占めていたため、彼らは主に三菱工場から近い東所井面(トンソジョンミョン)一帯の山麓に集まって暮らした。

このように外部の人々が集まりながら固有の地名だった東所井はいつの間にか消えてしまい、三菱工場を行き来する人々が多く住むところということで「サムヌン」と呼ばれた。このように忘れられた名前になりかけていた東所井から借音した東樹が、地下鉄開通直前に郷土史学者の努力によって駅名として決まり、今ではかえってサムヌンが記憶から消えることになった。このため東樹駅は駅名が最も意味深く決まった代表的事例ということができる。

ところで最近、ここにある旧屋に関するニュースがさまざまなメディアを通じて伝えられている。三菱で働いていた労働者が寝起きしていた社宅だったが、安宿のようにトイレと洗面台を共用で使い、簡易キッチンが備え付けられた狭い部屋が数珠つなぎのようにして連なっている構造のため、俗に「チュル社宅」と呼ばれている(チュルは韓国語で長細いものを指す)。これを日帝の搾取の証拠とみなして保存しようという意見と、古すぎて周辺に悪影響を与えるため撤去しようという意見が鋭く対立しているという報道だ。

だが、このような論争は、ある方面から見ると「バスが出発した後に手を振る」ようなものだ。1993年、三菱工場を撤去して公園化工事が進められたとき、一部の建物を西大門(ソデムン)刑務所歴史館のように残しておいてここに日帝侵奪に関連する証拠や内容を展示することのほうが有意義だったはずだからだ。現在の主張は、西大門刑務所の代わりに西大門刑務所に勤めた韓国人労務者の宿舎を保存しようということとそれほど変わらない。

チュル社宅は居住条件が劣悪で搾取の証拠になると主張するが、それは今の基準でそうなのであって、このような粗悪な住宅は1980年代にはありふれたものだった。不便だが今でも住民が暮らしているほどだ。事実、土地と建物に対する権利関係が複雑でなかったら、かなり以前に建て替えられていただろう。このため再開発に邪魔になるので撤去しようという主張も説得力を持つ。事実、チュル社宅を残しておくと該当地域の再開発が不可能な構造だ。

ところでまだ出発していなかったバスが1台残っている。500メートルほど離れた場所にある米軍基地が、近い将来に平沢(ピョンテク)に移転された後、開発される予定だ。ここに日帝が作っていた設がまだ残っているので、一部を残してチュル社宅と関連した証拠と資料も一緒に保存すればいい。これに関連して参考にするべきなのは、再開発をしながら保存空間を別途つくった仁川東区松現洞(ソンヒョンドン)の「水道局山タルドンネ博物館」だ。このようなやり方で開発と意義を共に再確認するのも妙案ではないかと考えられる。

ナム・ドヒョン/軍事コラムニスト