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【#ハンギョレ】「最初の慰安婦証言者」ペ・ボンギと「ウィズユー」した沖縄の人々

16日、「記録、記憶。沖縄の“慰安婦 ペ・ボンギ。聞きなれない名前の彼女は、最初の「慰安婦証言者」だ。1944年11月、30歳のペ・ボンギは故郷を離れて、沖縄の小さな島、渡嘉敷に行き、“慰安婦”となった。「赤瓦の家」と呼ばれた日本軍の慰安所で、アキコという仮名で暮らした。しばらくして、日本は太平洋戦争で負けた。日本軍が去ると、今度は米軍が入ってきた。ペ・ボンギは米軍収容所で以前と同じことをしなければならなかった。故国は解放されたが、故郷に帰る日は訪れなかった。

 心身は他郷で疲弊した。家もなく、ガスや水道もない2~3坪の納屋で暮らした。頭痛や神経痛、神経衰弱などに苦しみ、納屋で大声を上げていた。町内の子どもたちは彼女をいかれた婆さんと呼んだ。1972年5月、米国の信託統治を受けていた沖縄が返還された。そして、ペ・ボンギは決断を迫られた。日本政府は、1945年8月15日前に日本への入国が確認された沖縄県在住の朝鮮人にのみ、特別永住を許可するという措置を発表した。

 ペ・ボンギは沖縄から強制追放されないために、自分が「慰安婦」被害者であることを公表せざるを得なかった。「慰安婦として沖縄でこれまで生きてきた」。ペ・ボンギは以前一緒に働いたことのある食堂のオーナーに、その事実を打ち明けた。1975年10月、日本のメディアは61歳になったペ・ボンギさんの物語を記事にした。こうして、ペ・ボンギさんは日本政府とメディアによって「慰安婦被害者」であることをカミングアウトされた。

 故郷を思い出す度、涙が出た。1988年9月、日本の週刊誌「女性自身」の記者たちが、74歳のペ・ボンギさんを取材した。雑誌社の経費で故郷に行ってみようと、日本の記者たちが提案した。ペさんは「そうだね、行きたい。一度行かなきゃね」と言いながら、しばらく泣き崩れたという。約3年が過ぎた1991年10月18日、残暑が厳しかった日、77歳のペ・ボンギさんは結局故郷に帰ることなく、沖縄でこの世を去った。「夢の中で故郷に帰ったけど、家がありませんでした…もともと家がなかったから…そして、また夢を見た時も、家がなくて入れませんでした。それでも、夢の中では(故郷に)よく行きました」(ベ・ボンギ証言、川田文子著『赤瓦の家-朝鮮から来た従軍慰安婦』)”そしてペ・ボンギ物語」の講演行われる

 韓国人にとってペ・ボンギさんはあまり記憶に残らない存在だが、沖縄の人々はペさんをはっきり憶えている。16日、ソウル都市建築センター2階セミナー室で「記録、記憶。沖縄の“慰安婦”そしてペ・ボンギ物語」というテーマで、早稲田大学アジア太平洋研究センターのホン・ユンシン特別研究員の講演が行われた。ホン博士は沖縄で慰安所と関連した公文書と記録を収集し、これを住民の証言と比較する研究を行ってきた。『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』という著書は2016年に日本語で出版され、現在韓国語翻訳作業が進められている。ホン博士は2時間余りの講演で、沖縄の住民たちがペ・ボンギさんをはじめとする慰安婦をどのように記憶しているのか、その記憶が沖縄の平和運動といかなる関係を持っているのか、私たちは慰安婦をいかに記憶すべきかなどについて問いかけた。

 沖縄で女性史を研究するあるグループは1992年、沖縄の地図に約130カ所の元慰安所にしるしをつけた。「沖縄にこれほど多くの慰安所があったと抗議するためでした。法的な証拠はないが、これは揺るぎない事実です」とホン博士が講演で話した。

 慰安婦も、沖縄の人たちも、みんな同じ戦争の被害者だ。沖縄は太平洋戦争で住民の3分の1を失った。「沖縄の人たちは戦争の時、自分たちの面倒を見てくれた慰安婦を忘れることができませんでした。慰安婦の経験に自分自身の経験も含まれています。自分の経験を語りながら、慰安婦がどれほど大変だったのかよく語っていました。彼らがペ・ボンギさんに直接会ったのではないけれど、ペさんのような『連れてこられた女性』の空間である慰安所について、自分たちの経験を語ってきました。私たちは女性を守った彼らの温かい視線に注目しなければなりません」

 講演ではハンギョレの「韓国社会が忘れた最初の慰安婦証言者…その名はペ・ボンギ」という記事も引用された。当時、東京特派員だったキル・ユンヒョン記者は、韓国記者として初めてペさんについて取材しながら、沖縄のお婆さんたちの警戒交じりの、あるいは抗議まじりの視線に遭遇したという。「その視線は、実は、慰安婦の女性を守りたかった温かい視線かも知れません。先ほど言った地図につけられた印のことを覚えていますか。沖縄にあった慰安所は民家でした。戦争が終わった後、沖縄の人たちがそこで暮らしていたのです。彼らは自分が買った家が慰安所として使われていたと証言しました。ペ・ボンギさんのことは隠し、沖縄の人たち自身の経験を打ち明けたのです。これはカミングアウトではありません。被害者を保護し、慰安婦を目撃した人は自分自身であることを明らかにしたのです」。ホン博士はこう説明した。

ペ・ボンギさんが生き残るために慰安婦被害である事実を打ち明けなければなかった状況は、韓国社会のミートゥー(#MeToo)運動に示唆する点が大きい。「自分の苦しみについて言えなかった状況自体に対して、私たちはどんな知識を生産することができるでしょうか。ミートゥー運動には参加できないが、苦しみを味わった多くの人々が存在します。彼らのそばで誰かがウィズユー(With you)をしています。言えなかった状況自体について、いかなる知識を生産できるのか、私たちはこれについて考えなければなりません」

 太平洋戦争で生き残った沖縄の人たちが、自分が暮らしてきた家が慰安所として使われていたという事実を証言し、慰安婦被害女性のそばで「ウィズユー」をした。慰安婦を記憶しようとする沖縄の人たちならではの方法だった。「慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)たちは生き残りました。戦争の経験を自分たちの証言を通じて世の中に知らせました。その方々は多くの人に会い、人権運動家に、また誰よりも優れたフェミニスト思想家に変わりました。(ところが、一貫した証言を求めてきた)態度自体に潜んでいる私たちの加害性に気づかなければなりません。この証言は嘘ではないか、時間が経って少し変わってきているのではないかと、裁断を下す視線も生まれてきます。慰安婦被害者の矛盾した証言もすべて受け止めるべきです」

 これまで韓国社会は、慰安婦被害者の証言に寄りかかっていた。慰安婦被害者の女性たちに証言を求め続けた。しかし、沖縄の人たちは違った。沖縄の南側の宮古島慰安婦被害者を記憶するアリランの碑を建てた。彼らは、慰安婦被害者たちが洗濯の帰りに休んでいた石を記憶に留め、他の場所に移して、追悼碑にした。碑文には、消えることのない文が白い字で刻まれている。

 「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります」(日本語)。このメッセージは韓国語を含め12の言語で書かれている。

イ・ジョンギュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/886205.html