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【#中央日報】【コラム】日本はどのようにしてプリツカー賞の常連になったか

毎年3月になると、世界の建築界はプリツカー賞のためにざわざわする。1979年に始まり、最高権威を得たこの賞の今年の主人公は日本の建築家。磯崎新だった。日本は、8人目の米国に続いてすでに7人(組)目の受賞者を誕生させた。歴代受賞者を1人でも出した国は19カ国になる。英国が4人で、フランス・イタリア・ドイツ・スイス・スペイン・ポルトガル・ブラジルに各2人ずついる。

興味深いのは、米国が創設初期12年間で7人の受賞者を出した反面、日本は2010年代だけで4人で、最近この賞の常連になっているという点だ。数千年の西洋建築が本流である現代建築ですら日本が先頭に立ったということは、近代化と近代建築が西欧ほど早く根を下ろしたという歴史だけでは説明がつかない。特有の職人精神のおかげといってしまえばドイツ・イタリアが気分を害するだろうし、経済力に頼ったネットワークや異国趣味(エキゾチシズム、exoticism)を理由にするのも少し卑しい。サッカーでもないのだ、そのまま冷静に認めよう。日本の建築はすでに世界的であることを越えて最高の境地だ。

むしろ興味が引かれるのはそれがいつから始まったかということだ。1987年と1993年は「功労賞」に近い。当時の経済的地位を考えれば、日本建築のゴッドファーザー的存在だった丹下健三と、ハーバード出身で米国で主に活動していた槇文彦にこの賞が贈られたことはそれに値する。1995年にボクシング選手出身である独学建築家の安藤忠雄が受賞すると、日本建築アカデミズムが一発食らわされたという言葉も出てきた。

安藤を世界建築界に紹介したのは著名な建築史学者ケネス・フランプトンだ。モダニズムの解放的性格と地域伝統の再解釈を結合した、いわゆる「批判的地域主義」で資本主義建築の弊害を越えられると考える彼は安藤をその例に挙げる。安藤は厳格な幾何学を使い、自然と不二の関係を結ぶように露出したコンクリートを使用するが、日本特有の透明で澄んだ伝統空間を再現する。

少なくとも1990年代まで、最も日本的だったから世界的になった安藤を除く日本の建築は、西欧建築の後を追うエピゴーネンだった。高級化した華やかな建物は多かったが、関西空港や東京フォーラムなどのランドマークはレンツォ・ピアノやラファエル・ヴィニオリのような外国建築家が占め、民間の建物でも欧州勢が地元建築家をおさえた。ところがその後2010年までの間に何があったのか。

そこにはまさに「失われた20年」があった。バブル経済が消えて低迷したこの期間に日本社会は建築で贅肉を削ぎ落とし、建築家は爪を研いだ。ミケランジェロの言う「浄化された余剰」だ。豊かだった80年代ではなく窮乏した時期にむしろ価値の高い作品が建てられ、今の日本建築全盛期を謳歌することになったのはアイロニーというべきか。

いやいや、とんでもない。芸術性の根源であるアバンギャルディズムはもともと貧困を糧とする方法で、物質的豊かさはかえって刃をなまらせる。ナチスから逃れて米国に渡った近代建築のアバンギャルド精神が終局には資本主義の効率性と斬新性を宣伝する機械美学として制度化された場合が代表的な事例だ。

もうひとつ、この期間に日本の建築家は積極的に社会参加をしてきた。プリツカー賞は作品の優秀性はもちろん、人類に対する貢献を選定の基準とすると標ぼうしている。実際、最近この傾向はますます顕著になっている。坂茂(2014、日本)は1994年ルワンダ内戦難民のために紙による仮設住宅を作った後、世界の災難現場を回りながら紙建築を提供した建築家だ。

アレハンドロ・アラベナ(2016、チリ)の代表作であるイキケの貧民住宅は、足りない政府支援金で半分だけ作り、残りは住民たちが自助的(self-help)方式で作っている。バルクリシュナ・ドーシ(2018、インド)もまた都市貧民住宅で模範を示した建築家だ。独創的な構造美で有名な伊東豊雄(2013,、日本)も、実際に受賞理由になったのは東日本地震当時に流れついた丸太を利用して作った被災者のための素朴なコミュニティセンターだった。

時代と社会の水準がそのまま建築に反映されるのは建築が注文生産であるためだ。「世界最高層の建物を施工した韓国がなぜプリツカー賞を受賞できないのか」という愚問には「いまだにそのようなものを素晴らしい建築だと考えているから」が賢答だ。建築主が依然として高く大きくうるさいものを良しとし、建築を不動産であり誇示用品として取り扱う社会なら、「建設」はまだしも「建築」にはまだ到着していないといえる。

ハム・インソン/建築家・漢陽(ハニャン)大学建築学部特任教授