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【#ハンギョレ】金大中元大統領なら“韓日経済戦争”をどう受け止めるだろうか

金大中図書館『金大中全集2部』を刊行 
初公開の史料から見た対日認識

 1998年の「金大中-小渕宣言」(「日韓共同宣言―21世紀に向けた新たなパートナーシップ」)で、韓日関係の発展の転機を作った金大中(キム・デジュン)元大統領なら、今回の日本の輸出規制による“韓日経済戦争”をどう受け止めるだろうか。

 13日、延世大学校金大中図書館は1948年から1997年の大統領就任以前までの記録2015件を盛り込んだ『金大中全集第2部』を出版した。今回初めて公開された金元大統領の若い時代の記録を見ると、冷徹な批判意識とあたたかい連帯意識を同時に備えた金元大統領の対日認識がうかがえる。

 最近、韓日関係が硬直し再び注目されている「金大中-小渕宣言」は、当時、韓日両国が過去を直視しつつ未来を切り開いていくことで意見の一致を見た画期的な宣言として評価されている。韓日外交史上初めて、歴史に対する日本の反省と謝罪が公式合意文書に明示されただけでなく、未来志向的な韓日協力の方向も示された。これは、金元大統領が生涯をかけて築いてきた対日認識の結果と言える。

■韓日の友好を強調した現実主義者

 青年金大中は、日本を「手を携えるべき隣人」として見ていた現実主義者だった。停戦協定を締結しても北東アジア地域で銃声が止まなかった1953年10月、時事評論家の金大中が発表した「韓日友好の道」という寄稿文に、このような対日認識が明確に表れている。

 金元大統領は寄稿文で「共産侵略から(韓日)両国民族を救うため、一切の難関を克服し、両国民の友好団結が厳粛に求められる」と書いた。韓国の安保と国益のため、「自由陣営の一員」であり、「太平洋反共同盟でともに中枢的役割を果たすべき」日本との関係正常化は欠かせないという認識に基づいている。1964年、野党政治家たちが朴正煕(パク・チョンヒ)政権の韓日国交正常化を“売国”と批判し、激しく反対する時にも、青年政治家金大中はこのような見解を曲げなかった。

 もちろん、金元大統領が望む国交正常化には前提条件があった。ほかならぬ日本の態度の変化だった。金元大統領は寄稿文で「(日本の)傲慢な態度に目をつむり、握手の手を差し出すことは、民族の自尊心が許さないことはもちろん、両国の友好協力のためにも、決して目的を達成することができないだろう」とし、「日本の正しくない態度の是正を得なければ、真に永遠な両国親善の堅固な基礎を築くことはできない」と主張した。

■日本政界に対する真心からの助言

 金元大統領は、日本を単純に批判することだけに止まらなかった。彼は1972年に朴正煕元大統領が維新を宣言した後から、1973年8月に朴正煕政権によって東京で拉致される前まで日本に滞在し、様々な方法で日本社会に向けて真心からの助言を惜しまなかった。アジアで日本の占める立地を戦略的に認めながら、日本をより肯定的な方向に導こうという積極的な努力だった。

 金元大統領は1973年1月、日本の「中央公論」に掲載された「祖国韓国の悲痛な現実-独裁政治のドミノ的波及」という題名の寄稿文を通じて、アジアの中心に立った日本の影響力を認めると同時に、日本に責任感を求めた。「アジア各国民は複雑な眼差しで日本を見つめている。日本は自分だけ金持ちになればいいと思うだけで、(アジアの他の国々と)共に生きていこうとはしない立場」だと一喝した。また「日本はアジア各国での民主主義の定着および発展こそアジアの未来を決定する基本要件であることを深刻に認識しなければならない」とし、「アジア民主共同体」の組織を提案した。

■日本の良心的勢力への愛情も

 1980年、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が金元大統領に死刑を宣告したことで、「金大中」が韓日連帯の輪となったこともあった。当時、日本では金元大統領が1973年8月に東京のあるホテルで朴正煕政権によって拉致され、死の淵をさまよった事実が知られ、「金大中救命運動」が大々的に行われた。当時の金元大統領の獄中書簡を見ると、日本国内の良心的勢力への愛情がうかがえる。

 金元大統領は1983年の獄中書簡で、日本国民に対して感謝の意を表しながら、韓日両国の市民社会レベルの交流を開拓しようと主張した。金元大統領は「日本で私のために数百万の署名運動が行われ、あちこちでデモが起きていることを知り、私がどれほど大きく鼓舞され、感謝をしたか」としたうえで、「何重にも閉ざされた韓日両国国民の間の門を、志高い同志との協力で一日も早く開かなければならない」と書いた。

■日本政界に対する真心からの助言

 金元大統領は、日本を単純に批判することだけに止まらなかった。彼は1972年に朴正煕元大統領が維新を宣言した後から、1973年8月に朴正煕政権によって東京で拉致される前まで日本に滞在し、様々な方法で日本社会に向けて真心からの助言を惜しまなかった。アジアで日本の占める立地を戦略的に認めながら、日本をより肯定的な方向に導こうという積極的な努力だった。

 金元大統領は1973年1月、日本の「中央公論」に掲載された「祖国韓国の悲痛な現実-独裁政治のドミノ的波及」という題名の寄稿文を通じて、アジアの中心に立った日本の影響力を認めると同時に、日本に責任感を求めた。「アジア各国民は複雑な眼差しで日本を見つめている。日本は自分だけ金持ちになればいいと思うだけで、(アジアの他の国々と)共に生きていこうとはしない立場」だと一喝した。また「日本はアジア各国での民主主義の定着および発展こそアジアの未来を決定する基本要件であることを深刻に認識しなければならない」とし、「アジア民主共同体」の組織を提案した。

■日本の良心的勢力への愛情も

 1980年、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が金元大統領に死刑を宣告したことで、「金大中」が韓日連帯の輪となったこともあった。当時、日本では金元大統領が1973年8月に東京のあるホテルで朴正煕政権によって拉致され、死の淵をさまよった事実が知られ、「金大中救命運動」が大々的に行われた。当時の金元大統領の獄中書簡を見ると、日本国内の良心的勢力への愛情がうかがえる。

 金元大統領は1983年の獄中書簡で、日本国民に対して感謝の意を表しながら、韓日両国の市民社会レベルの交流を開拓しようと主張した。金元大統領は「日本で私のために数百万の署名運動が行われ、あちこちでデモが起きていることを知り、私がどれほど大きく鼓舞され、感謝をしたか」としたうえで、「何重にも閉ざされた韓日両国国民の間の門を、志高い同志との協力で一日も早く開かなければならない」と書いた。